1945年8月9日、私は爆心地から3.3キロメートルの県立長崎中学校の校舎内で被爆しました。 13歳の時でした。 「敵大型2機、島原半島を西進中」という西部軍管区の放送を生徒が大声で職員室に向かって報告しているのを聞いてから、何分も経たないうちに敵機の爆音が聞こえてきたかと思うと、その音が急に大きくなりました。 次の瞬間、身体がすごい光に包まれ、私は「学校のテニスコートに爆弾が落とされた」と思い、小学生の時から訓練されていたとおり、目と耳を塞いだ姿勢を取り、床に伏せました。 爆発の瞬間は、オレンジ色と黄色が混じったような光の海の中に一瞬全身が埋もれたような感覚でした。 続いて、すさまじい爆風で窓ガラスが破壊され、私は部屋の隅に頭を抱えて転がり込みました。 その上に級友が折り重なってきたため、その体重で息もできない有様でした。 しかし私は級友たちの下敷きになったおかげで、無傷で済んだのです。 級友たちはナイフのように尖った割れた窓ガラスが体に刺さり、血だらけになっていました。 さらに外を見渡すと、家々は壊れているのに火災は全く起きておらず、煙すら上がっていないのに、浦上地区には大きな火柱が上がっている。 一発の爆弾だったはずなのに広範囲に被害が及んでいるのはどうしてかと、不思議に思いました。 その後、学校の防空壕に二時間ほど避難していたでしょうか。 もう大丈夫だろうと、帰宅の途についた道は避難してくる人たちであふれかえっていました。 火傷か切り傷なのかわからない血まみれの男性。 顔から血を流している赤ちゃんを抱いて歩く母親。 腕が切れて垂れ下がっているのではないかと思われる人。 こういう人々が中川町から蛍茶屋の方向に群れをなして歩いてくるのです。 薄暗い雲が長崎の空一面を覆い、辺りは夏の真昼だというのに、あたかも日食のようでした。 こうして8月9日が過ぎ、戦争が終わりました。 この爆弾が原子爆弾というものだと知らされたのは戦争終結後のことでした。…